孫 9 条 の 会 
  4年前のお正月に押しよせた孫集団、総勢9人を写した壱枚です。
 恒例であるお年玉の贈呈式の後、ジィジィが日本国憲法第9条について講釈を始めました。

  「戦争は絶対ダメ! 9条はそのことを決めている」

  「みんなで守っていくよう”孫9条の会”をつくるぞ! オー!」

 こんなに揃うことは滅多にないと、総勢9人で記念の壱枚を撮影。
 戦後、教科書の副読本として使われた「あたらしい憲法のはなし」(文部省)を、この孫
たちが中学生になったとき渡してきています。その年齢に達した孫は、まだ半数ほど。  

全員に渡し終えるまで”自らの最期”は来ないでほしいものです。
 昨年の参議院選挙後、選挙権を得たばかりの、いちばん上の孫娘から、「ジィジィとバァ
バァが前から勧めていた党の人に投票したよ」と電話がかかってきました。ジィジィとバァ
バァの二人は、これまでの孫との関わりの成果に大喜び。
 この写真は、私たち二人にとって10年後、20年後の”秘蔵の壱枚”になるものです。

                                       (下村 ミサオさん / 矢巾東支部)
 
 
 

前森山集団農場にて 
  盛岡民主診療所が設立され、開業したのが昭和41年1月。その2か月後から57年までの16年間、職員でした。この写真は趣味でたくさん撮った中の一枚です。
 民主診療所では、設立趣旨である「労働者は健康を自らの手で守る」を実践するため現地に出向いての健診をしていました。最初は”小繋事件”で有名な一戸町小鳥谷(こずや)地区の人たちでした。次いで戦地からの引揚者が開拓し、営農していた”前森山集団農場”でした。この縁で、今でもこの地区には医療生協の「健康管理バス」が運行されているそうですね。
 写真は健診で前森山集団農場を訪問したときの一枚です。真ん中の眼鏡をかけた方が坂先生、右端が場長の寺田さん、その左が看護士の土井尻さん。
 現在、川久保病院で勤務している看護士の高橋光子さん(旧姓小林さん)は、前森山農場の出身で盛岡医療生協の看護学生奨学生でした。民主診療所の撒いたタネがこんな形でも実を結んでいるのだと思います。それと、現在の川久保病院をみれば、あの小さかった「盛岡診療所」がここまで大きくなったかと、感慨ひとしおです。盛岡民主診療所が50年をかけて、ここまで成長し、地域の方々に頼られる存在になったのは、 ひとえに組合員と職員の力の賜物です。かつて医療生協にお世話になった者の一人として民主診療所設立の原点にたち、さらに地域に頼られる存在になってほしいと願っています。
                       (栗原 誠治さん 盛岡河南支部
 
 
 
 

出 征 風 景 
  目にするごとに不安と嫌悪感を掻き立てられる写真が私の手元にあります。 しかし、それはまた、時代の閉塞された暗さも醸し出している写真でもあるのです。
 32年前、父が74歳の生涯を終えた時、遺品を整理していて父の軍隊での写真の中に見つけたものです。
 昭和初期に、盛岡工業学校(現在の盛岡工業高校)を卒業後、兵役で東京の中野電信隊に入隊したそうですが、その時の写真ではないかと思われます。  写真の右側に新兵が緊張した面持ちで不動の姿勢をとって整列し、それとは対照的に左側の軍人たちはサーベルを腰に下げ、旭日旗などを背に楽な姿勢で新兵たちを睨みつけています。そして左端では、政治家か名士とおぼしきモーニング姿の男性が檀の上に立って胸を反らせながら祝辞か訓示か何かを垂れているのです。誰が撮った写真か、父が映っているのかはわかりません。しかし、軍人が支配していた世相を感じ取れる一枚でもあるのです。
  軍靴の音が知らず知らずのうちに近づき、気が付いたらサーベルを下げた軍人が威張り腐って街の中を闊歩していた。                 
 いま、南スーダンに自衛隊が行っていますが、そんな世の中の再来を予感させます。しかし、平和憲法はまだ生きています。若い人たちも声を上げ始めています。
 まだ、絶望するには早いのです!
                     (緑が丘支部 藤村 敬吾さん)

 
 
 
 

咲いた!phyteuma scheuchzeri  (フィトゥマ・シューキツェリ) 
 玄関の前に 寄せ植えの鉢を置いています。去年(2015年)の春、ふとその鉢を見たところ、植えていたスミレとは違う葉が・・・。まもなく 図鑑でも見たことがない不思議な花が咲き始めました。
 写真を見ていただければお分かりかと思いますが、一本の茎の先に7つの玉のようなものがあり、玉の一つ一つに角(ツノ)のような花びらが伸びてきました。やがてこの角が提灯の形に縦に割れ、さらには根元から”おしべ”らしきものが出現。そして最後には提灯の先が開いて”めしべ”になっているではありませんか!
 いろいろと調べていたら、たまたま見た友人のブログに似た写真がアップ! 聞いてみると咲いていた場所は遠い国”イタリア” 鉢にもちろん植えた覚えはなく・・・。 
 この花はキキョウ科の1種でアルプスに咲く多年草であることがわかりました。
phyteuma scheuchzeri  (フィトゥマ・シューキツェリ)といい、和名はありません。イタリア・オーストリアを旅行したことはありますが、その時に知らず知らず持ち帰ったのでしょうか?それが偶然にこの鉢に? 残念ながら2016年の春に再会はかないませんでした。
 この花は、私に自然の不思議さを あらためて感じさせてくれました。この写真は「私の秘蔵の壱枚」になりそうです。
                      (滝沢北支部 長内 潤子さん)
 
 
 
 
 
デジカメで素敵なカップが!
  この作品は、私が所属している盛岡市老人クラブ連合会のサークル”盛岡パソコン友の会”のパソコン講習会での労作です。
デジカメで写真を撮りパソコン=デジカメで同時にプリントを取り込みます。
 次に「ラベルマイティ」というソフトウェアをつかい写真をカップに合うサイズに加工し貼り付けて完成!
 このサークルで活動して6年になります。「ワード」「エクセル」「インターネット」の習得はもちろん、時計・カレンダー・缶バッジ・ポスターDVDなどいろいろな作品作りにも挑戦しています。
 講習は月1回ですが、仲間と楽しくパソコンに向かっています。私のいっときの”人生の楽園”です。
 ”盛岡パソコン友の会”は10数年の歴史があり、現在5つのクラスで70人がパソコンを学んで(?)います。
 八幡宮祭典の山車、岩手公園の石垣、岩手銀行の旧本店などは、盛岡に住むようになって70年の私にとって、今やかけがえのない存在になっています。

                        (大宮支部 浦川 明さん)


~職場集会の風景~
1962年に看護婦になり岩手医大に就職しました。
その頃は、夜勤が一か月に10日で連続1週間の勤務でした。
一人夜勤の職場が半数以上もありました。
このような環境で結婚している看護婦は少なかったのです。
1968年全国で夜勤制限・増員闘争に取り組みました。
当時、いまだ封建色の濃かった私立医大で闘争に取り組むということで日本医療労働組合連合会本部からオルグが入りました。
毎日のように職場集会が開かれ、勤務が終わると組合事務所に集まって話し合いをしていました。
この写真は、その時の様子を本部のカメラマンが撮ってくれた一枚です。
闘争では「私たちは良い看護をしたい」この一点で職場はまとまりました。
「提灯行列」や「医大の仲間を励ます集会」など多くの仲間や患者さん、市民の支持を得て”複数で平均8日以内”の夜勤協定を結ぶことができました。
闘争の中心は20代の看護婦でした。私たちが一番輝いていた時代の一枚です。
                      (松園支部 小林禎子さん
) 
  
  ※オルグ:未組織の大衆・労働者の中に入って、労働組合や政党などを組織し
    強化する任務をもつ人。オルガナイザーの略。(旺文社〈国語辞典〉第八版)

 2000 年を皮切りに3度にわたって中国東北部(旧満州)の731 部隊(細菌戦)および南京大虐殺、そして従軍慰安婦問題で問われている「ナヌムの家」を調査のため旅行した。いずれもかつての日本軍による蛮行の後を訪れたのだった。メンバーは、岩手県の小中高学校の現役、退職者とその家族、合計15 人の平和を考える旅でもあった。
私は、“頭が白いから”というだけで、団長の任をになった。写真は、日本軍による中国人大虐殺の証拠を示す「記念館」前で、献花の後に撮ったもの。
 私たちは、3 回のいずれも、大変だった当時を体験した生存者の「証言」を聴くこと、事実を確かめることを中心に調査した。
 団長の役割は、記念館を訪問したときや証言者の話を聴くときのあいさつであったが、事前に準備していった原稿はほとんど役に立たなかった。何故か? 努めて冷静に生存者の証言、視る証拠と対峙したが、見聞する内容は私(たち)の予想をはるかに超えていたからだ。
 調査団の中には、八路軍に従軍した経験を持つ人、731 部隊で細菌培養のネズミの飼育係を父に持つ人もいた。詳細を記す紙幅はないが、証言者の話が終わると、話した者と聴いた者は涙の止まらないまま抱き合った。「ナヌムの家」では、「日本人と聞いただけで恐い、身体がこわばる」という老婦人をやっと説得して、私たちの前で話してもらった。
 戦争への反省と平和こそ大事! と強く思う。

                               (紫波支部  及川 剛)



 すんごく恥ずかしい! 小学校5年生(昭和33 年)の私です。運動会での女の子の最新ファッション、黒いブルマと運動会用の白い足袋できめています。スタートラインで号砲を待っている間、心臓がでんぐり返るほどドキドキしていて、当時からプレッシャーに弱い私でした。
 その頃の思い出。一つ目、算数のテストで「問題が間違っている」と勘違いし問題を書きかえて回答し、「勝手に問題を書きかえるな」と先生に怒られたこと。二つ目、正田美智子さん(今の皇后)の横顔を見たくて、ブロマイドを半分に折って横から見たところ顔の半分がきえてしまったのに頭をひねったこと。ドジでまぬけなところは今なお健在、我ながら苦笑します。
 あれから半世紀以上もたちました。貧しかったけど「宝坂(私の家の屋号)のえっこ(栄子)」と呼ばれ、故郷の皆さんに育てていただいたことに感謝しています。我が母校は玉山村立城内小学校。かつて生徒は140 人ほどでしたが、今は20 人足らずとか、母校はなくなってしまうかもしれません。故郷の人口減少は深刻です。
 当時、首相は岸信介でした。現在の情勢をみると、自分がなしえなかった無念を孫に託したのではと思われてなりません。憲法改正論者のバトンを握っている現内閣に未来の平和を委ねることはできません。一刻も早く退陣してほしいです。
 故郷に何も恩返しはできませんが、せめて平和な未来を次の世代にバトンタッチできるよう、微力ながらがんばる決意をしています。     
                                           (牛間木榮子/山岸支部)


 写真は、1977年、盛岡市職員労働組合と市当局との集団交渉の一コマである。
 当時、自治省は地方自治体に対して賃金制度の改悪を迫り、盛岡市も改悪案を提示してきた。私は、市職労で副委員長だった。市長は工藤巌氏、助役は自治省から出向していた。市職労は市長や助役との集団交渉を重ね、最終的には改悪案を撤回させたのだった。
 この年、岩手は61年ぶりの冷害に見舞われた。労組としても賃金問題だけでなく、冷害対策を求める運動にも積極的に取り組んだ。こうした運動も改悪を許さない力になったと思っている。
 ここ何年来、労働者の賃金は下降線をたどっており、年金も削減されつづけている。対する労働者側は、非正規労働者の増大もあってか、労働組合への加入率が芳しくないなど、いまひとつ元気がないように思われる。賃金だけでなく、平和の問題などでも労働組合に期待するところは大きい。

 (松田正/山岸支部)



  昭和15年、仙台市のど真ん中で生まれました。学校を卒(お)え、当時3公社5現業といわれたうちの一つ、日本専売公社(現在のJT)に就職、仙台工場で働きはじめました。平成19年に退職するまで50年ほど勤務。この間、20年余り、東北6県の事業所を転勤してあるきました。妻はもちろん、子どもたちはその都度転校することになり、申し訳なかったと思っています。
 浄法寺の事業所時代、30歳で結婚し。平成4年、いま住んでいるところに自宅を建てましたが、ほとんど他県に単身赴任のため、妻が一手に家を守り、子育てをしてくれました。平成19年に退職し、ようやく妻と二人の落ち着いた生活がはじまりました。その矢先、妻は病を得、20年3月、あっけなく逝ってしまいました。
 妻亡き後、身体に気をつけるようになりました。そんなとき出合ったのが、松園支部が行っていた「まちかど健康チェック」。これが、私と医療生協とのお付き合いの始まりです。その後、松園支部から分離・独立した米内支部の支部長を任されるなど、つながりは深まるばかりです。
 写真は、仙台工場時代の昭和36年ころのもの。ボディビルをやりはじめたきっかけは、仕事上、肉体労働も多いことから、体づくりのため。本格的に取りくんだのは、3年あまりでした。今でも、健康づくりのため、ウォーキングとあわせて、10キロのダンベルで筋肉トレーニングもしています。これからも身体に気をつけ、妻の分まで長生きしようと思っています。
                                         (高橋貞江/米内支部)


隣近所のおねえさんに囲まれ、歩いているのが私です
 宮古市で生まれ、今月で56歳になります。7年前まで26年間、田野畑村役場に勤務。この間、1983(昭和58)年、結婚。娘と息子にめぐまれました。娘には子どもが2人いますので、もう立派なお祖母(ばあ)さんです。
 写真は、1歳になりよちよち歩きを始めた頃のもの。“普通”に歩いたのはこの時まで。この写真が撮られた数日後、小児麻痺を発症。もの心ついた頃、母はこの写真をみせては、「明美の足が悪いのは生まれつきではない。自分の足で歩いていたけど、病気でこうなった。誰のことも恨まないように」と話しました。障害者に対し偏見が強かった時代、我が子を病気にしてしまった申し訳なさや、女性としての行く末を心配してのことだったのでしょう。母親となり、この時の母の気持ちはよく分かります。
 4回目の3月11日がやってきます。あの時、用事で大槌町役場の近くにいました。運よく、津波から逃れ、6日間を町の体育館で過ごしました。私の生存を知った夫と息子が、あるかなきかの道を、車で迎えにきました。帰路、息子に「かあさん、絶対に泣くなよ」と言われましたが、あの光景を目にしては、涙が止まりませんでした。
 小さい頃の病気、4年前の地震と津波を経験し、「あたり前であること」がありがたく、それだけで楽しいことだと思えるようになりました。この思いを、拠(よ)りどころに、これからの人生を明るく、楽しく生きていきます。

(上山明美/田野畑村)
  8年ほど前、妻とイタリアに旅行した。楽しかった。中でも、お気に入りはベネチア本島。
 何と、車がない! 唯一の交通手段は、縦横に張り巡らされた運河を行きかう船。人間サイズの町。人間ウオッチをしながら迷路のような路地をぶらぶら。運河にかかる橋で、男性二人が身振り手振りをまじえて立ち話。少し歩くとまた橋。カップルが欄干に座り、抱擁。「そうか、車の行きかわない橋って、出会いの場、愛を語らう場なんだ」と得心した。狭い運河の上、両岸の建物にロープを張って、洗濯物がひらひら。ほんと、心なごむ町、ベネチア。
 そんな町の印象を、尊敬するF 氏にお話したところ、同感とのこと。うれしかった。後日、F 氏からこの絵をいただいた。画家でもあるF 氏がサンマルコ広場近くの桟橋からスケッチしたという。
 絵から、あのベネチアの町が浮かぶ。そして、F 氏のことも……。私が若いころ、労働運動の指導者だったF 氏。厳しかった、でもやさしかった。そして、ダンディで格好よかった。
 ――旅人が行きかう桟橋。スケッチブックを片手に佇( たたず) むF 氏。
ラグーナ* が鈍く光る。彼は一瞬とまどう。それからゆっくりと、マッジョーレ島に目を凝らす―― そんな情景を頭に描き、「やっぱり、かっこいい」と独りごと。
 F 氏にお会いすること、今はもう叶わない。
                                        (菊池光雄/大宮支部)

* ラグーナ:潟湖。外海と砂州によって隔てられ、狭い海峡でつながっている地形



 40数年前、小学校教師になり、葛巻町の江刈小学校に赴任しました。校内研究をすることになって、テーマは国語科の「作文」に決まり、私が研究授業の担当に。
 研究授業の日、講師は盛岡からいらした、今は亡き吉田六太郎先生でした。授業が終わった後、吉田先生や諸先生からいろいろ指導をいただきました。そして翌日、六太郎先生から1枚のはがきが届いたのです。びっくり! 感動! 多分、葛巻駅でのバスの待ち時間に書かれたと思います。その後も、作文についての指導のはがきをいただきましたが、この最初の1枚は、作文の教師を続けてきた私にとって、最後まで原動力であり、宝物なのです。その後も、相談にのってもらったり、「作文の会」(国語専任教師の勉強会)で指導してもらったりしました。
 退職後、「さわやかさん」の編集委員をしていました。2007年5月、当時の連載記事「あやかりたい」の取材のため、「憲法9条の会」で頑張っておられる六太郎先生にお会いすることができました。六太郎先生には本当にお世話になりました。もっともっと師であってほしかった方です。
 (大橋智子/河東支部)



1963年(昭和38年)、20 歳で青果などを販売する「昆松商店」に嫁ぎました。あれから50 年、昨年、金婚式を迎えました。写真は夫の年祝いのときのもの。商売が最盛期のころで、家族、親せきはもちろん従業員の方々に祝ってもらいました。二人とも“若い”ですね~。
奇しくも、結婚した63 年は果くだもの物の輸入が自由化された年で、昆松でもバナナ加工場(室むろ)を新設、販売をはじめました。加工場の基礎工事のとき、初めて一輪車を使用しましたが、思いどおりに動かせずヨロヨロしたことを思い出します。
日中は店で販売の仕事。閉店後、9時過ぎからは加工場で、篭(かご)に入ったまだ青い台湾バナナやエクアドルバナナのヘタを切り落とし、箱に詰め、熟成のため室に入れる。この繰り返しで、毎日、働きづめでした。お蔭さまで、当時、盛岡周辺では、「バナナといえば昆松」というほどに知られるようになりました。それもこれも、大家族と従業員さん、地域の皆さんに支えられてのことで、感謝の気持ちでいっぱいです。
70 歳を過ぎたいま、楽しい夫婦げんかをしながら、軽トラックを運転し、3か所の産直に野菜などを卸しています。この春からは、行政区の大班長、徳田地区交通安全母の会理事、スクールガードとてんてこ舞いです。これからも身体に気をつけてファイト、ファイトです。 (昆 弘子/矢巾東支部)
      
 
              父の入営記念写真(昭和13年12月撮影)

 父は1918 年(大正7 年)、 一関市東山町で、鍛冶屋の二男として生まれました。尋常高等小学校を卒業した後、日立製作所に勤務。1938 年(昭和13 年)12 月、「赤紙」が。20 歳で盛岡工兵第八聯隊( れんたい) に現役入隊。これが、そのときの写真で、襷( たすき) には「祝 入營 岩渕定躬( さだみ) 君」とあります。開戦の前月1941 年11 月、満期除隊しました。
 除隊と同時に盛岡聯隊区司令部に勤務。1945 年、敗戦にともない聯隊区司令部は岩手地方世話部に改組。1947 年には岩手県職員になり世話課、耕地課などに配属。聯隊区司令部は徴兵・召集など、世話課は復員兵の受け入れと世話、耕地課は食糧増産を目的とした耕作地拡大のための部署で、いずれも戦中、戦争直後ならではの職務です。
 写真は、父の両隣が両親(私の祖父母)。父の兄(長男)が写っていません。このとき、すでに長男は徴兵されていたのです。
 父は保守的考え方の持ち主でしたが、生前「戦争だけはだめだ」と繰り返し言っていました。いま、集団的自衛権の行使容認、武器輸出三原則の緩和など、戦争ができる国にむけての準備が着々とすすんでいます。生きていれば96 歳の父はこの世情、時勢をどう感じたのでしょうか。(大宮支部 小田島弘)
   

連載中の“私の秘蔵のこの壱枚”に掲載する写真・絵画・洋服など、「枚」で数えることができるものであれば、何でも結構です。ぜひ、お寄せください。お寄せいただき、掲載する場合、「さわやかさん」編集委員があなたの思いなどうかがいます。   お問い合わせ先は:組織部(019-635-6253)


    けい子先生の一言で看護師を志し 訪問看護でその大事さを知る
    鈴木幸子さん(在宅総合センターひだまり)

 
 私は小さなころから喘息持ちで、川久保病院に通院していました。高校3年生のとき、麻疹で入院した際、けい子先生に「さっちゃん、看護師になれば?」の一言で看護師を志しました。看護学校への入学時、また在学中も川久保病院の師長さんたちが相談にのってくれ、盛岡医療生協の奨学生になることができました。
 この写真は、私が看護学生時代(17年前)に川久保病院で「訪問看護体験」をしているときのものです。このころ、訪問看護を行っている病院は少なく、初めて自宅で療養している患者さん、ご家族に出会いました。住み慣れた自宅で過ごせるという喜びの一方、家族の負担の大きさに気付かされました。そして、看護師が足を運び、清拭や足浴をすること、ご家族の話をじっくり聞くことが療養の大きな支えになっていることを知り、自分も将来、訪問看護をしたい!  と強く思ったことを憶えています。
 盛岡医療生協は、学生のころからたくさんのことを見る、知る機会を与えてくれ、私を看護師に育ててくれました。職員となった今、組合員さん、患者さん、利用者さん、職場の仲間が私を育ててくれています。
 



                水彩画「座禅像」(曹洞宗衹陀寺所蔵)
                       河南支部 佐藤 イヤ子さん


 6年前に退職し、ようやく自分だけの時間がもてるようになったので、六十の手習いで水彩画をはじめました。絵筆をもったのは、中学校での図画の時間以来のことでした。この絵は、今年、亡夫の37回忌を機に描いたものです。普段は身近にある草花などを描いており、こんな大きな作品ははじめてです。

 夫が亡くなったとき、ちょうど30歳でふたりの子どもを抱えていました。幸い、支援学校の寮母をしていましたので、これを続けることで子どもを育て上げることができました。私や亡夫の職場の同僚はじめ周りの人たちにはいっぱいお世話していただきました。今とはちがい、まだ“時代”がよかったのかなと思います。

 私たちの“時代”にくらべ、今の若い人たちは大変だろうなと思いますし、何でこんなぎすぎすした“時代”になったのかなと思います。いい“時代”を過ごすことができた私たちが“時代”を変え、“世の中”を変えなければいけないと思っています。



 5年前の秋、かつての職場の先輩と弘前公園の紅葉を観賞しました。幸運にも遭遇したのが、先に引退を表明した映画監督の宮崎駿さん。一緒に写ってほしいとお願いしたところ、監督は笑顔で快諾。私と同行の先輩は監督の両脇に。
 これが、あのときの1枚で。あの日の弘前公園は空気まで真っ赤なほどの紅葉でした。
 先日、「風立ちぬ」を観ました。宮崎監督の独特の画法や台詞(せりふ)とそれを盛り上げる久石譲さんのBGM…、それは素晴らしい作品でした。
 飛行機づくりへの男のロマンのストーリーのなかで、宮崎監督が一貫して訴えている戦争反対と平和への願いが、観ている私たちに強く伝わってきました。

 (山本章子/紫波東支部)
 中国の水墨画家、馬燕民さんの作品です。画題は「天然」。
 
 映画、演劇、歌唱、絵画など、芸術・文化的なことに素養も興味も(まして、当時は余裕も?)なかったころ、1998年に職場保育所の財政活動で「絵画展」を開催しました。
 
 その時出あった、この一枚の絵に感動しました。初夏のやさしい陽ざし、そよ風になびく柳の細い葉、小雀たちのさえずり。やさしい暖かさに全身が包まれるような感覚で思わず涙があふれました。
 
 私の、この様子を見ていたのでしょう。会場にいた馬燕民さんが「この絵は私が描きました」と声をかけてくれました。お話ししているうちに、静かで控えめなやさしい人柄を感じ、すっかり魅了されました。
 
 馬燕民さんは、東洋美術史研究のため1987年、日本に留学。日中平和友好条約締結十周年記念の個展を開くなど、国内外から将来を嘱望されている画家だったそうです。私たちが開いた「絵画展」から数年後、交通事故で急逝したとのこと。残念で、悲しいことですが、私にとっては、ほっこり、思い出深い「秘蔵の壱枚」です。 
 好転の糸口すらないまま、隣国の韓国そして中国と“厳しく、冷たい”関係がつづいています。この絵をみながら、国レベルではいがみあっているものの、国民・個人間では文化や芸術などの分野の交流を通し、信頼しあっているはずとの思いを強くしています。
    
(関明子/滝沢北支部)


 1948年(昭和23年)の夏に撮影された、北海道夕張市立鹿島小学校の、わが1年竹組の学級写真です。服装、髪型、履物などの珍しさもさることながら、全71人という児童数に圧倒されるのではないでしょうか。
 敗戦から3年たった、1948年、新学制に移行して新制中学校がスタートしました。教師も教室も絶対数が不足していて、小学校にもしわ寄せがきて、このような70人学級が誕生したのでした。
 今年2月、小学校の教師をしている長女がやってきて、「受け持ってきた子どもたちが、3年生になって40人学級になれば大変だ」と心配していました。そこでアルバム帳を取り出してきて、見せたのがこの1枚です。
 全学年が35人学級への流れはもちろん加速されなければなりません。しかしそれは、65年前のこのような、今では考えられない超マンモス学級にはじまる歴史の延長線上にある、と知っておくことも、意味のないことではないと思ったのです。
                                                (村山正三/河南支部)